漁港が造られる以前の風景です。
勝浦方面から来て坂を下った位置からの風景です。
絵葉書の撮影地点は今の撮影地点よりも内陸に入った高台です。
ホテルに遮られて同一地点から海岸は写りませんでした。
この頃の浜漁港は現在の半分ほどでした。
昭和30年代半ば頃拡張されて現在の規模になりました。
上の画とほぼ同じ地点からの撮影と思われます。
絵葉書のタイトルは「南総御宿天王台ヨリ岩和田岬ヲ望ム」です。
はがきの宛名などから推察いたしますと昭和初期かそれ以前のようです。
モノクロの撮影地点は漁港と道路を挟んだ愛宕山頂上です。。
かっては小さな社が二棟あり参道もありました。
裏側から登ってみましたが樹木に覆われていて同様な画は得られませんでした。
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の倉庫は現存しております。昭和31年に建てられたことが確認できました。
また、拡張した防波堤が写っておりません。
(昭和30年着工・39年竣工/防波堤は35年にはほぼできていた)
このことから昭和31年から33年の間に撮影されたものと断定できます。
一枚目1970年頃撮影
最盛期はすでに過ぎておりましたが漁港周辺には「せいぞば」と呼ばれた施設がけっこうありました。
「せいぞば」とは製造場が訛ったものです。
以前は鰯がたくさん捕れました。その水産加工場です。
(鰯は購入するものではなく、くださるか貰う物でした。バケツ一杯単位でした)
主に、目刺し。そして煮干し。
煮干しは食料用のほかに「シメカス」と呼ばれた肥料も作られました。
当時の「せいぞば」の庭先には目刺し、煮干しが干されてました。
ごく当たり前の風景でした。
が、その10年くらい前までは記憶を辿ると漁港から300mの通りに10軒ほどの加工場がありました。
二枚目2020年撮影
もう、そんな風景を視ることはありません。電柱の位置だけが当時のままです。
季節になると敷地内では足りなくなり砂浜一帯が天日干し場となりました。
現物を捜しても見つからないのでCGで再現いたしました。
CGは「ハシゴ」と呼ばれてました。幅は50〜60cmほど。長さは4mくらいでした。
二枚の竹簀が敷かれてその上に目刺しとか煮干しが干されました。
夕方になると数段積み重ねカバーを掛け夜露をしのぎました。
目刺しにするのはカタクチイワシ。この地方ではセグロ(背黒)と呼ばれておりました。
煮干しもこれを加工したものです。茹でて脂分を落としたものです。
脂はドニクと呼ばれてました。
漁港の「シラ」に塗られて船底との摩擦を軽減・摩耗防止に用いられました。
カタクチ鰯よりも大きいチュウバイワシ(中羽鰯・サイズの大きい物も区別なくチュウバと呼ばれていた)は頬刺しにされ干されてました。
目刺しは竹串を左目から刺し顎を通し4匹でワンセットでした。
頬刺しは細い竹の棒を鰓蓋からくぐらせて口から出し10数匹でワンセット。
串の長さはハシゴの幅より少々長く竹簀を用いずにハシゴに吊るされて干されました。