新川橋(現在は御宿橋と名称が変更されております。)上流です。
両岸はコンクリートで固められており当時の面影はありません。

 現在名「御宿橋」の上から撮られた画と思われます。
右岸のほとりにボート小屋があります。
その先に見えるのが旧地曳き橋と思われます。
絵葉書には記念塔が写っておりません。
昭和三年以前の撮影か、撮影機材・感光剤・技術が
未発達のために空の明るさを落とすことが出来なかったのかもしれません。

 かっての地曳き橋と思われます。
人がやっと通れるレベルの原始的な橋です。

多少時代がいまに近づきました。
橋がやっと一人通れるレベルからやや頑丈になってます。

背景の山の左端にサンドスキー場が見えます。


 漸く橋らしくなった地曳き橋です。
荷車が渡れるレベルの木製の橋です。
その後自動車の通行が可能な橋に架け換わりました。
それから何年かして現在の橋が架けられました。
現在はリゾートマンションが建ち並びプール等の施設もありますが
戦後しばらくの間はこの一帯は砂の原でした
セーラー服の少女は「御宿家政高校」の生徒です。
その高校も少子化の影響ですでにありません。

 現在とは異なり海岸線の砂地の面積は広大なものであったようです。
今の写真はだいぶ海に近い距離で撮影いたしました。
が、絵葉書の写真はもう少し上流で撮られた可能性があります。
いまは住宅が建ち並んでおりますが戦後はまだ砂の原が国道近くまで
広がっておりました。
 この葉書は女性の服装から比較的新しい物と思われます。
画の中のボートは昭和40年頃まで、この河川で貸しボートとして
営業されておりました。
その後、海水浴場で貸しボートと営まれようといたしましたが
波の荒い海には適しておらずワンシーズンで姿を消しました。

 現在の月の沙漠公園付近です。
公営プールは昭和四十年代半ば頃までキャンプ場でした。
砂丘橋はその当時はありませんでした。
岩和田に向かう海岸通りもありませんでした。

昭和43年(1968)の清水川(当時は新川と呼ばれていたかもしれません)沿岸です。
海水浴での賑わいがピーク時の頃です。
現存する建物は中央にある鉄筋コンクリート造り(信用金庫・今は閉鎖されている)のみです。川の堤を視ると一部がコンクリートになりつつあります。
二枚目カラーは2020年、同位置から撮影。後ろのマンションに重なって分かりにくいかもしれませんが信用金庫の2F部分が見えます。
A 御宿駅 B 町営プール C 信用金庫 D 中央海水浴場入り口
黄→ 撮影位置・撮影方向 
矢印の下の駐車場・隣接されているマンションはその当時より10年前くらいまでは水田でした。
緑ライン 当時の駅から海水浴場までの最も利用された行程 

 浜方面から地曳橋を渡ると松林でした。
その中の小径を少々歩き振り返った風景です。
当時は人家は殆どありませんでした。

 今は無き御宿家政高校の前身です。
 昭和三年に創立時に建造された校舎と思われます。
 その後、移転、廃校。
 現在、跡地には公民館が建てられてます。