五厘講
  明治35年(1902)9月28日。台風で小学校が倒壊した。

  臨時教場八カ所が設けられました。
  最明寺(現在小学校の門柱が寺院入口に建てられてます)、
  観音寺、妙音寺(尾崎士郎「人生劇場」ゆかりの寺)、妙昌寺、
  久保勘定場、養生病院跡、八左衛門宅、十王堂。

  伊藤は郡役所に校舎の再建を願った。
  郡役人は県に交渉することを了承した。
  しかし、日露戦争開戦間際のご時世であり、何処からも快い回答は無かった。

  明治40年(1907) 校舎が倒壊してすでに五年。

  伊藤鬼一郎校長と村田啓次郎村長は国・県・郡に頼ることを諦め自力再建への道を選択。

  小学校再建のために村内全戸(861戸・現在の布施・岩和田は含まれない)で
  日々五厘の寄付を募ることを提案。現存していた隣組制度を活用。
  五厘講が発足。


  五厘とは言えど毎日となるとその負担は・・・?。※1円=100銭、1銭=10厘 

  明治30年頃、小学校の教員や警察官の初任給は8〜9円ぐらいだったようです。
  一円は現在の二万円くらいと思えば宜しいような気がいたします。
  五厘×365日=1,825厘=182.5銭=1.825円 
  一戸あたりの負担額は年40,000円前後くらいでしょうか。
  房総の寒村にとってはけっして楽な額では無かったことと想います。

 明治43年、伊藤校長は郡役所を通して県に御宿小学校新築申請書を提出した。
 9月15日建築を認める「許可書」が届いた。
 しかし校舎を再建できる金額にはまだほど遠かった。

  明治40年5月1日〜明治45年4月30日 861戸 七千八百余円
  明治45年(1912)4月、工事着工。
  明治45年5月1日〜大正3年7月31日 一銭/日 878戸 七千余円
  有志による寄付 八千三百余円  町費五千円  計二万八千余円

  大正三年(1914)七月 念願の校舎が完成。 
  二万八千余円は現在の貨幣価値に換算すると6億円に近い額です。 

講とは

〜江戸連『講』の由来〜

江戸時代の「講」には、「伊勢講」「富士講」に代表される信仰に基づくものと、
「頼母子講」「無尽講」に代表される経済的相互扶助を目指すものの二種類があった。

どちらも、「講」のメンバーが定期的にお金を積み立て、そのお金で前者の場合には何人かずつを「講」の代表として伊勢詣・富士詣に送り出そうとするものであり、
後者の場合は籤引きなどに当たった人がまとまったお金を優先的に利用できるシステムであった。

伊勢詣も富士詣も日本の信仰の旅は同時に「物見遊山」の旅でもあった。
「連れ立ってあちこちの名所旧跡を訪ね、知的好奇心を満足させようとする」旅でもあった。